「場」に集まればコミュニテーが生まれるのか?

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昨日は仕事仲間の忘年会であった。
もうかれこれ38年も続いている仲間の集う機会であります。

 

小さい居酒屋を貸り切って午後6時から午後12時まで位の間
総勢20名近くが集まる「場」である。

 

季節毎の集まりであり約4回/年位集まる年中行事の一つです。
建築設計事務所を自営している人たちの男も女も参加する会です。

 

短い挨拶あり、酒を酌み交わしながら近況報告に話がはずみます。
しかしそれも一段落すると、カラオケがはじまります。

 

会が始まってから30分ほどで、場の雰囲気がカラオケムードに
変化してゆく。
ハロゥイン如くの仮想衣装でオカマバーを呈してくる。

 

会話どころではないやかましさ。
時たまカラオケの嫌いな人もいるので、つまらないつまらない
とぼやきはじめだす。

 

1時間もすればもう収拾のつかない状態になだれこむ。
それがだんだんとエスカレートしてくると時間が早い。

 

すぐ予定の午後12時近くになってしまう。
それで一人去り、2人去りするうちに全員が帰ってゆく。

 

昔の無礼講のような有様のまま、帰宅してしまう。

 

で多数の人は日ごろの仕事の憂さ晴らしゆえ満足そうです。
でも酒もカラオケも余り好まない人は翌日不満の連絡がはいる。

 

この有様が38年間続いている。
メンバーが入れ替わり立ちかしてわりしながらも持続しているのだ。

 

今日のテーマーは「場」に集まればコミュニテーがうまれるのか?
ということである。

 

以前からこの疑問を感じつつ時間が過ぎ去ってしまった。
またそんな疑問さえも殆どの人はもたないまま今にいたっている。

 

この会の始まりはこれからの時代をどう生き抜くかとか、
またビジネスチャンスを討議するのが主旨であった。

 

その夢は実現するあてもなく、むざんな結果になってしまった。
その理由を考えてみたのがつぎの様なたあいのないものでした。

 

・理想の理念は起業者が自ずから考えるものである。

・たくさん集まればためになる有意義なヒントが得られるのは
妄想である。

・会社組織のように、一つの目的に向かっているのには有意義かも?

・田舎と都会の環境の差が、大きな障害になる。
例として酒席に車、電車の交通手段はおおきな問題点である。

・そもそも論的な考えがなく、娯楽と理解している。

・最初の理念なんてそもそも知らない。

・同業者故日ごろは商売仇故、本音がでない。

・だからこんな場を議論の場と認識するのがまちがっている。

・単なる娯楽の食事会程度に理解して参加する。

 

学芸出版社から「つながるカフェ」山納 洋著の中で疑問を
呈している。

 

そのなかで人が集まれば「場」はできるのか?
という記事で私が書いた事を実証するかの如く体験談を語っている。

 

私はもともとはコミュニティは日本の社会では成立していないし
これからも成立しないと思っている派の一人である。

 

建築設計を生業としていて官庁発注のコミュニティセンター建設
と聞いた時には、拒否反応しか起こらない。

 

地域の人の集まる場所であるが、当の担当者自体がコミュニティ
自体の意味合いを理解していないのではないでしょうか。

 

だからコミュニティを学問的にとらえるところから間違った
答えしかでてこなのである。

 

コミュニケーションがすべての人間を豊かにするという発想は
妄想にすぎないでしょうし、将来に渡って理解されないでしょう。

 

しかし最近の風潮はコミュニティが社会に定着すれば、人間は
幸せになるという、根拠の薄い言説がブームになってきている。

 

私は少し大げさすぎる論調の気がしてならないのですが
あなたはどう思われますか?

 

この手の問題は正解がないまま、一人歩きしだしましたので
すこし次回からもっと深堀して考えませんか?

ではでは~

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